中国武術

中国武術上達のコツ ~仏に逢えば仏を殺せ 祖に逢えば祖を殺せ~

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臨済宗の言葉に「仏に会えば仏を殺せ」という言葉があることを耳にしました。これは簡単にいうと全ての固定概念や執着、しがらみを捨てることでこそ光が見えるということです。この考え方は中国武術の高みを目指し練習する我々に強い啓示を与えています。

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今回は「仏に会えば仏を殺せ」について解説します。

仏に会えば仏を殺せ

中国の寺院中国の寺院

仏に会えば仏を殺せとは、禅宗である臨済宗の経典「臨済録」にある「逢佛殺佛」という記述の一部を読み下したものです。

「仏に会えば仏を殺せ」が書かれた部分の一式を抜粋すると以下の通りとなります。

「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」

訳すと、仏に逢ては仏を殺せ、祖に逢うては祖を殺せ、羅漢に逢うては羅漢を殺せ、父母に逢うては父母を殺せ、親族眷属に逢うてはこれらを殺せ、そうすれば、解脱を得たり、何事にも拘らず、自由自在となる、となります。

臨在録は臨済宗開祖の臨済義玄の言葉を記したものであり、仏に逢えば仏を殺せ~は解脱を得るための教えです。解釈としては、解脱の境地を得るには例え仏の言葉、祖の言葉、自分の父母に対しても執着やしがらみの一切を持ってはいけない、という考えです。

念のため申し上げておきますが、親を殺したりすることを推奨しているのではありません。
あくまでも祖を殺したり、父母を殺したりするくらいの「勢いで」執着やこだわりを排除しようという教えです。

「仏に会えば仏を殺せ」における中国武術への啓示

中国の仏像中国の仏像

「仏に会えば仏を殺せ」は中国武術練習者にも大きな啓示を与えています。それは、

  • 師の存在に執着する
  • 師の言葉に囚われる
  • 始祖の言葉に囚われる
  • 先人の言葉に執着する

ということへの戒めです。

先人や始祖の言葉や習ったことだけではなく、師の存在、門派、系譜に執着し固執すれば、
物事の本質を見失ったり、自由闊達な議論、検証、研究、比較、論証を怠ることにすらなります。

「仏に逢えば仏を殺せ」は具体的にいうと以下のようなことへの戒めに効果を発揮します。

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老師に対する偶像崇拝

武術練習者がまず注意しなければならないのは老師や始祖に対する偶像崇拝です。これをやってしまうと中国武術の練習者は知らず知らずのうちに大きな損失を自分自身で追い込みます。具体的には以下のようなあるまじき弊害を生みます。

老師に習ったものしか練習しなくなる

老師を偶像崇拝してしまうと老師から習ったものしか練習しなくなる傾向が出ます。世の中には多くの素晴らしいものがあります。老師から習ったものが良いとは限らないし、すべてとも言えません。

世界は老師という人間よりも広いし大きいです。老師を崇敬するのは結構ですが、偶像崇拝し神格化してしてしまうのは技術の研究と研鑽、検証と考証と論考、発展と議論を阻みます。技術に対する客観性を失ってしまうことは、技術の進化、昇華、向上、進歩、発展を妨げるどころか、堕落の第一歩となります。

ましては老師の遺影や老師の遺物を崇める対象にするなどは言語道断です。老師は崇敬の対象とし、技術を発展させ継承した老師に敬意を表し、その技術を発展させることが我々に課せられた宿題です。

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老師のレベルを自分の最終目標としてしまう

老師を偶像崇拝の対象にしてしまうと、ひょっとすると中には老師を自分の中の最終目標としてしまう方が現れてしまうという現象が起こります。人間は、一人の人間の技術を吸収しようとし目標としても到底その人の70点にしか到達しません。

感性的なものを全く同一条件で体験することができないからです。ですから残りの部分は自分で他のものを吸収してレベルアップをする必要があります。老師がやったようにです。

老師を100点としてその100点を目指すということは、自分で自分の限界を設定してしまうということです。老師にとってはうれしい話かもしれませんが、老師は同時にこれをとても悲しむと思います。

近代武術の名人たちは自身が老師から学んだことを基礎にし、それをきっかけにして、また踏み台にして技術を発展させてきました。そして老師の老師たちもその姿勢を称賛し、その試行錯誤の姿勢を認め、支持してきました。それにより近代中国には多くの名人が誕生しました。

きっかけにするべき老師の技術や心意気を最終目標としてしまうと、まさにそこが衰退の始まりです。そして日々進化し続ける外の世界をしり目に、自分は世間に取り残されてしまいます。

ここでまた軍事技術の技術開発の話を例に出しますが、軍用機にしろ軍艦にしろ、技術者は過去に作られたものを基礎にして、次はさらに性能を向上させたものを設計し世に送り出そうとしてきました。

戦艦でいうと帝国海軍はイギリスから導入した超弩級戦艦の建造技術をもとに扶桑型戦艦を建造しました。そして扶桑級で明らかになった問題点を洗い直し伊勢型を建造します。さらにこれを発展させ長門型を建造することにより日本は当時世界最大、最速、最強の戦艦建造技術を自国で保持することができるようになりました。

この設計はその後も精錬され、強化され、天城型巡洋戦艦、加賀型戦艦へとつながっていきます。技術の研鑽と発展には摩擦と適度な緊張感および競争という外的要因も必要ですが、現状に甘んじないという強い意志が必要不可欠です。

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老師の言葉や教えに対する妄信

自分の師の教えを正としてしまう。これが老師の言葉や教えに対する妄信です。

ここで以前、実際にあった話を一つ紹介します。

日本人のお客さんが武館にいらっしゃったときのこと、当時はSARSという流行性感冒が流行っていました。ある日の夕食会で老師が「さあ飲め、白酒(蒸留酒)を飲めばSARSにならない ハハハ」と冗談を言ったんですが、それを真に受けて信じる日本人がいました。

「老師がそうおっしゃった」から信じる、こういうのは最悪です。

私はその話をきいて、「またこのジジイは何を訳の分からんことを言うてんにゃ、あほんだら、日本人が信じたらどうすんにゃ」と思ったものですが、普通は老師が言ったことは信じなければならないことになっているそうです。

まあその、普段から自分のおじいさんのように一緒の食卓でご飯を頂いて毎日会っている私と、一年一回武館に来られて老師とコミュニケーションを人の通訳を介してとる人の違いは分からないことはないですが、こういうことを信じているようではいろいろな世界やビジネスでもヤラレてしまいますね。先が思いやられます。

老師や先人の伝説的逸話への妄信

老師や先人の伝説的逸話への妄信、これも夢見る中国武術家が陥りがちなよくない事例の一つです。ここから出すのは例え話ですが、よく出てくるものには以下のような話があります。

「老師は若いころ体格がよく身長が1□□cmもあった。」人間は老齢になると多少身長は縮みます。背骨の隙間の緩衝材がへたってきたり、骨粗しょう症で骨が圧迫されるためです。ですが骨格自体が10cmも20cmも縮んだりすることはありません。それができるのは奇面組だけです。

「老師は100斤の石を持ち上げた」→斤の単位が現代我々が知っている斤とは違うんでしょう。

「老師は一日24時間の練習を10年怠らなかった」→そんなことをしたら寝る時間や食事の時間が無くなり体を壊します。

「片道100キロの道のりを突きを繰り返しながら老師のもとに通い、3年間休む日は一日もなかった。」→100キロを突きをしながら歩けば何時間もかかります。片道12時間かかって老師のもとに行っても、挨拶したらすぐに帰らないといけなくなります。それに、親戚の葬式の日や正月までそんなことをしている人がいたらただの変態です。

中国人は一日も練習を欠かさないという割には、雨の日の公園には誰も練習している人はいません。

自分の練習している門派最強論

自分の門派最強論もいただけない考え方の一つです。これも「仏に逢えば仏を殺せ」の感覚で抹殺しなければならない考え方です。

中国武術の門派に優劣はないとはないという方もいますが、技術には優劣はあります。優れた部分もあればかなわない部分もある。それらを客観公平に評価することが重要です。自分が練習する門派に誇りを持つことはいいことですし、わざわざ根拠なく蔑む必要はありませんが技術体系に対する客観的で俯瞰的な姿勢を持つことは大事です。

「仏に会えば仏を殺せ」のまとめ

中国の仏像中国の仏像

今回は「仏に会えば仏を殺せ」の仏教の教えと中国武術についてまとめました。「仏に会えば仏を殺せ」を要約すると、すべてを疑う先に光明があるということになります。老師や始祖を含めた他人の考えたものに固執する限り、いっぱしにはなれないということです。

老師を崇敬する、あるいは門派に誇り持つあまり、それが執着になっている人を私も見たことがあります。その執着に気づきそこから抜け出すことができる者こそが、やっと過去に門派を創設したり、新しい道を切り開いた人物と横並びになれる可能性があるということです。

勇気をもって自分が信じるものを疑うことによってのみ、中国武術は新たなる境地にたどり着くことができると私は信じています。

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