中国武術

不争の徳 ~人と争わない品格を持とう~

不争の徳

皆さんは不争の徳という言葉を聞いたことはありますでしょうか。不争の徳とは「人と争わない人格」のことを指す言葉です。

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力ずくで人と争うことは人の道に反することであることを「不争」という概念は表しています。不争、つまり争わないことこそが徳である、徳がある人はいたずらに人と争ったりしないものであるという言葉です。

私が中華文明に親しみ、中国武術を趣味として楽しむ上でとても大事な考え方と思うのが
「不争の徳」です。本日は中華文明が我々の生き方と処世の態度として大きな意味を与えてくれる言葉、「不争の徳」について解説します。ちゅうごくのf請けい不争の徳とは、人との争いをしない姿勢を表した言葉です。徳のある人物は人と争わず、衝突せず、よく人に譲るということを意味する言葉です。

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不争の徳の出典

ほおずきほおずき

不争の徳の出典は「老子」の第六十八章の不争の徳です。

不争の徳の原文

中国の風景中国の風景

不争の徳の原文は以下の通りです。

善爲士者不武。
善戰者不怒。
善勝敵者不與。
善用人者爲之下。
是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天。古之極。

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不争の徳の書き下し文

中国の風景中国の風景

不争の徳の書き下し文は以下の通りです。

善く士たる者は武ならず。
善く戦う者は怒らず。
善く敵に勝つ者は与にせず。
善く人を用うる者はこれが下と為る。
これを不争の徳と謂い、これを人の力を用うと謂い、これを天に配すと謂う。古えの極なり。

不争の徳の要約

中国の風景中国の風景

不争の徳の要約すると以下の通りとなります。

優れた士人は武を以て争うことはしない。
うまく戦うものは感情に任せて敵にぶつからない。
うまく敵に勝つものは相手と争わない。
うまく人を用いるものはへりくだる。
これを不争の徳といい、これを人の能力をつかうといい、これは天に通じ、まさに古からの道理の極意である。

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不争の徳の解説

中国の風景中国の風景

不争の徳には老子の思想である謙譲の気持ちを持つという考え方が根底にあります。人と衝突せず、うまくことを運ぶ人は、人の下になろうと心掛ける気持ちを持っています。

中国人が伝統的に持つ「武力や暴力で物事を解決しない」誇りを表しています。

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不争の徳と共通する概念

中国の風景中国の風景

不争の徳と共通する概念には以下のようなものがあります。

戦わずして勝つ

戦わずして勝つとは、孫子の兵法の代表的な名言の一つである「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」を表す言葉として有名です。

つまり、実際に戦闘するというリスクを負って傷つきながら勝利するよりも、戦闘を行わず外交と交渉により相手の意図を挫くことこそが兵を善くするものである、という言葉です。

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上兵は謀を伐つ

上兵は謀を伐つ、も孫子の兵法にある有名な言葉の一つです。つまり戦上手は直接城を攻めたり、力づくで攻撃をするのではなく、謀略や計作、数術により敵の意図を挫くことを上策とするという意味です。

直接シバき合いをすることは、中国の兵法家、軍略家、武人のみならず、士、または市井の庶民にとっても下策中の下策となります。非常に頭が悪くレベルが低くセンスが悪いやり方なのです。

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無手勝流

塚原卜伝という剣豪が論じた兵法の一つに無手勝流というものがあります。剣豪塚原卜伝が諸国をめぐり武者修行をしていた時のこと、琵琶湖にある矢橋の渡しを舟に乗っていた時、体格のいい侍と相席になったことがありました。

侍は乗り合わせた乗客に自分の武勇伝を吹聴してまわりやがて塚原卜伝にも「おぬしも修行者か」と声をかけました。侍は塚原卜伝に対して、無礼な言葉を発したのち、卜伝の腕前を見せてもらおうと言い、船頭に船を岸に着けるように言いました。

卜伝は、離れ小島に舟をつけるように船頭にお願いしました。舟が離れ小島に近づくと侍は颯爽と舟を飛び降り刀を抜きました。

それを見た卜伝はゆっくりと立ち上がり、船頭から竿を借りるとぐいっと竿を押しました。舟はみるみる小島から離れていきます。卜伝は「これこそ私の無手勝流、刀はむやみに抜くものではない」と悔しがる侍に言い放ちました。

上善は水のごとし

上善は水のごとしとは、「上善若水。水善利万物而不争」つまり、最上のものは水であり、水は万物に優れ且つ争わない、という意味です。老荘思想では水を最高の徳の象徴としています。

老子の七十八章にも「天下に水より柔弱なるは莫し、而も堅強を攻むる者、之に能く勝るなし。」というものがあり、水の柔弱さは何ものにも勝るものであると説いています。

不争の徳を中国武術に生かす知恵

中国の風景中国の風景

ここでは不争の徳の概念を中国武術に生かす知恵を紹介します。

感情的にならない

人と争わないためにはまず大事なことは感情的にならないことです。人は誰でもふとした言葉で気分が苛立ったりしてしまうことがありますが、戦わずして勝つ、つまり争わず、相手の思いのままにならないようにするためには、まずは自分の感情をよく制御し理性で物事を考える必要があります。

人の挑発に乗ってしまうと、感情を高ぶらせることにより理性を失わせ、冷静で戦略的な思考を奪い取ろうとする相手の作戦にまんまとはまり込みに行くようなものです。よく戦う者は武ならず、戦上手は怒らないということです。

力づくに持ち込まない

中華民族が不争の徳を重視する民族であることを知り、それを以て中国武術を考えれば、おのずと「力づくに持ち込む」野蛮で下品な方法で問題を解決することを避けるようになります。

力づくや武力で物事を解決することは中国人が最も忌み嫌う手法です。目的のためにそのような手段を慎重に避ける傾向があります。

物事は力づくではなく、外交交渉、駆け引き、知略、計算と策術によりスマートに解決することが上等です。「上兵は謀を伐つ」「兵は詭道なり」の概念です。

勝ち負けにこだわらない

中国武術を練習するにあたり、勝ち負けにこだわる意識を持って練習すればするほど、均衡と和諧という一見武術と矛盾している概念とのかい離が大きくなり武術の理解と功夫の蓄積を妨げます。勝ち負けを争うような考えかたで武術を考えている時点で、残念ながらその人は武術としては「敗者」確定です。

好戦的態度を取らない

せっかく不争の徳を練るために武術を練習しているのに、人と衝突をしようとする好戦的態度をとってしまうと元も子もありません。これは武術は使うために練習しているのでせっかく練習したものを使わない手はないと考えてしまう勘違いから起こり得るものです。

武術を練って好戦的態度が強くなるならば、練習の方式と考え方が根本から間違っています。自分から人を挑発しないことはもちろん、人から挑発を受けてもその挑発に乗らず、謙虚に譲る気持ちが重要です。人から挑発を受けた時には、「韓信の股くぐり」の故事を思い出してください。

売られた喧嘩は買わない

不争の徳を身に着けた人は喧嘩を売りません。自分から喧嘩を売らないだけではなく、売られた喧嘩も買いません。そんな喧嘩を買ってしまうと、喧嘩を売ってくる人と同じレベルまで落ちてしまうからです。不争は徳が高い人が持つ精神の境地です。「喧嘩は売るな、売られた喧嘩は買うな」を覚えておきましょう。

相手を持ち上げ謙譲する

不争の徳を体現するには、まずは相手を持ち上げ謙譲する姿勢を示すことです。自分の態度を謙虚にし、へりくだれば人は自尊心をくすぐられ不毛な争いは起こりにくくなります。謙譲とは不毛な摩擦や衝突を起こさないようにして双方が消耗を避けるという中国人の知恵です。

敬して之を遠ざける

敬うそぶりを見せて深く付き合わないようにする、つまり「敬して之を遠ざける」という方法も不争の知恵として有効です。日本語でいう「敬遠」です。

あるとき樊遅という孔子の弟子が孔子に知恵とは何かを問いました。孔子は「民草が生活のために行うべきことをやり、鬼神(死者)は敬うけれども遠いところに置いておく、これが知恵だよ」と答えました。つまりは面倒なことからは避けて遠ざかりましょうということです。

つまらない人間を相手にしない

不争の徳を体現するために重要なことは、「つまらない人間を相手にしないこと」につきます。

人格ができていない人、誹謗中傷する人、人のアラを探史ばかりする人などを相手にすると疲れるだけですし、不毛な時間を費やしてしまいます。とはいってもつまらない人間も人間は人間ですので、同することはなくても和してあげてください。

人と仲良く付き合う

不争の徳、これはつまり人と仲良くつきあうということを表します。不要な衝突と軋轢を避け、誰とでも平和と和諧を意識して温和に過ごすようにしましょう。

ユーモアで受け流す

争い事は自分が感情的になるか、相手の策略にはまり感情的にならされるか、相手が感情的になるかで発生する場合が多いです。

人がこちらを挑発するのは、相手がこちらの理性と戦略的思考を失わせるための陽動です。この陽動に引っかかってしまっては、三国志演義でいうところの、呂布の頭脳レベルまで人間が落ちてしまいます。挑発には、英知、理性、機知と知性と教養と学識からくるユーモアをもって対処し受け流しましょう。

外交交渉によって意図を封じ込める

不争の徳を自身が保持していても、時には第三者が第三者自身の都合で、こちらを侵してくる場合があります。

その際には武力や暴力で抵抗すればいいと思いがちですが、そのような野蛮で下品な手段を選択しなくても、外交交渉によって第三者の意図を挫いたり封じ目たりすることは現実的に可能です。「上兵は謀を伐つ」というのがこれです。

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夷を以て夷を制す

不争の徳、この信念を自身で持つことは簡単ですが、状況によっては外部要因により、外的圧力を排除しなければならない場合があります。その状況下において自分が直接に争うことを避けながら、不争の徳を以て外的圧力を排除する方法は存在します。

それは「夷を以て夷を制す」という政略を用いるという方法論です。これはもう少し具体的にかみ砕くと二種類以上の外的圧力をお互いに衝突させるように取り計らい、こちらから外部圧力と対峙することなく、外部圧力を排除するという方法です。

歴史的事実から具体的な実例を見ていくと以下のような事例を挙げることができます。

二虎競食の計

二虎競食の計とは、三国志演義に登場する計の一つで、二匹の虎が獲物をめぐって争いつぶしあいをするように仕向ける計略です。劉備と呂布が手を組むことを恐れた曹操方の荀彧が曹操に献策したものです。

三国時代における蜀の外交政策

三国鼎立の時代に劉備が益州に建てた蜀は3国の中で最も弱小でした。蜀は曹家に簒奪された漢王朝の復興を目指し、険峻な秦嶺山脈の南側から関中(長安を中心とした地域)を攻めようとしていました。ですが北方を占拠する魏は強く一対一では歯が立たない。

そこで蜀は呉と同盟を結び呉をけしかけて江南と荊州南部から魏を攻めさせ、関中に配置された魏の勢力の分散を図ったり、自身への圧力を回避するという政策で外交を行いました。

金に遼を攻めさせる北宋

燕京(現在の北京)を中心とする燕州と大同の周辺を中心とする雲州を含めた燕雲十六州は漢人の居住地となっていましたが、後晋の時代に契丹(遼)に割譲されて以来、漢人の王朝と契丹人の王朝である遼の係争地となっていました。

12世紀になると遼のさらに東北から女真人が勢力を伸ばし、金を建国しました。これを燕雲十六州奪還の好機ととらえた北宋は、金と軍事同盟を結び、南北から遼を挟撃し燕雲十六州の奪還を試みました。

宋はこの同盟にて、夷狄である金に同じく夷狄である遼を攻撃させることにより領土の奪還と遼、金の弱体化をも画策しました。

モンゴルに金を攻めさせる南宋

モンゴルのオゴデイ・ハンは華北の金を攻略するために大遠征軍を南方に送り出しました。
モンゴルの右翼軍は金を攻撃するために南宋の版図の通過を要請したため南宋はそれを許可し、道案内などの便宜を図りました。

それによって漢水を渡ったモンゴル軍は、三峰山の戦いで金の主力軍を壊滅させ開封の包囲に成功しました。

このようにして南宋は、宿敵金を滅亡させるためにモンゴルを活用し、最後は南宋もモンゴルとともに金の哀宗が立てこもる蔡州を包囲し、金を滅亡させることに成功しました。

義和団の乱

義和団の乱は1900年に清で起こった騒乱です。義和団事変とも言われます。

もともと義和拳という武術をもとに集まり、外国を排除する思想により集まった秘密結社団体が起こした反乱でしたが、これを西太后が欧米列強の排除するために利用しました。

義和団の欧米列強を排斥しようとする力をそのまま欧米列強に対峙させ、双方をぶつけ合うことにより双方を弱らせるという戦略は、結果がどうであれ参考にするべきものがあります。

呉三桂に山海関を開けさせる清

呉三桂は明末の将軍です。山海関で清と対峙するために山海関を守備していましたが、李自成軍により北京が陥落し、呉三桂は李自成とドルゴン率いる清軍に挟まされる体制となりました。

そこで呉三桂はドルゴンに投稿し、李自成を打つための援助を求め山海関を明け渡しました。ドルゴンは呉三桂を最前線に立たせそのまま北京に進軍しました。

呉三桂軍は李自成軍と衝突し激戦の末北京を陥落させました。清は自らの兵力を消耗することなく、北京を陥落させることに成功しました。その後呉三桂は平西大将軍に任ぜられ雲南に封じられました。

澶淵の盟

澶淵の盟は、1004年に宋と遼の間で結ばれた盟約です。982年遼で聖宗が即位したあと、遼は20万の大軍で南下し宋を攻めようとしました。

宋の真宗は親征を行い澶州に赴きここで和平交渉を行いました。遼は領土割譲を求めましたが、宋は財貨を送ることにより和平を求めました。和平交渉は順調に進み、

  • 内容は国境の現状維持
  • 不戦
  • 宋を兄とし遼を弟すること
  • 宋は遼に対し年間絹20万匹・銀10万両を送ること

が取り決められました。

これにより宋には長く平和が訪れました。遼は宋から送られる財貨により経済力を発展させましたが、同時に宋の華美な文化が浸透したことにより絹織物や茶、陶磁器などの需要が高まり、宋は大量の物資を遼に輸出できるようになりました。

そのおかげで宋は、貿易によって遼に送る財貨を上回る利益を上げ、自国に還流することがができるようになり、また遼に対する軍事費を削減することができたため未曽有の経済的繁栄を謳歌しました。

また遼では宋の文化に魅せられたことにより尚武の気風が薄れ軍事力は弱体化しました。こうして、宋は外交政策と経済政策、文化の浸透により武力を骨抜きにすることで、争わずして優勢を確保することに成功しました。

抗日戦争

抗日戦争で重慶国民政府は、アメリカの支援を得つつ日本軍との直接対決を極力避け、日本軍の兵站が伸び切るのを待つ作戦でした。

共産党勢力である八路軍は、極力自身から日本軍とは戦わず、国民政府軍と日本軍を戦わせるように仕向け、双方につぶしあいをさせるように図らいました。

汪兆銘の南京国民政府は自軍の勢力を温存しながら日本の軍事力を重慶国民政府や八路軍とかち合わせるように計算し行動し、それぞれが自身の損耗を最小限にして争わず、他勢力を他勢力に衝突させるという作戦を行っていました。

輩份と義兄弟の契りで調停を行う

中国武術の練習で得られるものは技撃や格闘の技術だけではありません。中国武術の練習の過程で知り合う老師、師兄弟、江湖の同業者や幫派の重鎮、馬賊の攔巴たち、彼らとの関係を持つこと、義理の親子関係、あるいは義兄弟の契りを結んだりすることは、不争の徳を実現することに繋がります。

武術家の仕事の一つには、江湖や同業者のつながりや人脈をもっていざこざや利害関係の調停を行うことです。日本人は中国武術家たるもの、戦って勝利し、名声を高めることが最大の目的であると誤解していますが、実は伝統武術家は戦わずに矛を納めさせることにかけてのプロです。

顔が広く人格と統率力を備えた人物が、輩份(上下関係などの序列)や義兄弟や血縁関係などのいわゆる「関係」を駆使して利害関係の調整に取り組めば、物事は丸く収まります。裁判制度、警察制度が形骸化していた時代、中原に住む中国人はこのような手段を使って不要な闘争を回避してきたのです。

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不争の徳のまとめ

中国の風景中国の風景

今回は中国武術を修める方が持つべき「不争の徳」について解説しました。

不争の徳は周の末期に生きた人物が残した「老子」という言論集にある言葉です。善く敵に勝つ者は与にせず、とはつまりはよく人を制する者は人と争わわない、という意味を表しています。怒らず、人を叩きのめさず寛容であり、へりくだり、水のごとくある、このような状態を人の世をうまく泳ぐ理想的な状態ととらえたのです。

中国人は武の修練を、人を蹴ったり叩いたりする野蛮で下品な暴力のために練っているのでありません。人と衝突することを戒め、調和と協調、和諧のために武術を学んでいます。これを聞くと技撃の技術である武術の本質と矛盾するのではないかと思う方もおられるかもしれませんが、そういう方はご自身の学識と教養の無さを恥じなければなりません。

中国人は武術の中に修養と自身を律する心構えを思い、平和と協調を目指して武を捉え、生きています。「不争の徳」を認識することは「戦って人を制するための武術」ではない武術のあり方を考える一つの機会になると思います。

人がどのようにうまく共存し生きていくか、それを考えながら、私は武を練り、そして多くのものを学んでいます。

養兵千日、用兵一時
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