中国武術を練習している皆さんは普段どのような単語を使って練習をしていますか?中国武術を指導する場合、私は自分が習った際に使用していた単語を使用しています。
武術や武道、競技においてもその種の用語を使うことが一般的であるともいます。オリンピックスポーツである柔道、フェンシング、テコンドーにおいても単語は固有名詞を使用しており、この考え方は中国武術においても同じであると考えています。
日本の場合、とくに日本人の動作や日本の武道から借用した単語や動作名称を中国武術でも使用するといういわば悪弊があるように思います。
今回は中国武術では使わない単語や動作名称について論じます。
中国武術で使わない言葉
中国武術中国武術で使わない言葉には以下のようなものがあります。
突き
突きは日本語では主に拳打を表す言葉ですが、「突」とは中国語では突起部を表したりする表現のことを言い、拳打を意味することはありません。拳による打突は「拳打」であり掌である打突は「掌打」です。ですから突きという言葉を使うことはありません。
蹴り
蹴りは日本語で何かをけるという意味をもつ言葉ですが、中国武術ではこの漢字を使うことは全くありません。蹴りは「?」(Ti)と言います。
普通「?法」という表現や「腿法」「脚法」という言葉で蹴りの動作を表します。ですから中国武術の足技で「蹴」という漢字を見たことはないはずです。
旋風腿、や旋風脚、正?腿というように意味に合わせて?、腿、脚、を使いましょう。中国語でも腿は大腿部、脚は脛部を含めた脚部、足は足首より先を表します。これは日本語と同じです。
中国武術は脚、腿の両方の字を使いますが、足技という表現にあっては「脚法」より「腿法」の使用頻度が高いです。
せっかく高度に出来上がっている中華伝統武藝を倭風のなんちゃってちゅうごくけんぽーに堕としてしまわないようにするためにこのような用語は正しく使うようにしてほしいと思います。
投げ
「投」(tou)という言葉は中国語にもあります。例えばボールを投げる時に腕の力で物を投げる動作を言います。片手で人間を握り、人間を投げることは普通はできないので人間に対しては使うことはありません。
人間を掴んだり抱えたりして転ばせたりすることは「?」という動詞を使います。これは?角という運動があることからもお判りいただけると思います。
人間は投げるものではありません。人間を投げることができるのは片手でやすやすと人間を掴み上げて持ち上げることができ、ピッチャーのように投げることができる怪力の持ち主だけです。人間は?するものです。
受け
受(Shou)は受け付ける、受け入れる、引き受けるといいう意味です。攻撃を当てて防ぐという意味はありません。攻撃動作を対抗する力で遮るのは?(Dang)という概念です。あまり上等の防御方法ではないです。「受け」という表現は中国武術では全く使用しません。
極め
極とは極めて、非常に、とても、のような副詞の使い方をするものです。関節や筋肉、腱を締めたり、伸ばしたり、曲げたりして固定したり痛みを与える技法は「擒拿」あるいは「拿法」と言います。
「関節」は中国語でも骨格の連結部を指しますので日本語と同じ表現ですが「関節技」という表現を用いても中国武術家には意味が通じません。「分筋」(筋や腱を断裂させる)や「錯骨」(関節を脱臼させる、骨折させる)という表現も用いられることがあります。
道場
道場は中国武術は全く使用しない単語です。道場は仏が悟りを開いた場所を言い、仏教の修行を行う場を示す言葉です。今でも道場と聞けば仏教臭を感じ、武術の武も想像することはできません。
武術を練習する場所は練武場、練習場地、武術練習所等と称し、武術を練習するための部屋は、練房、拳房、技撃室等と呼ばれます。
道場は英語の外来語でもDojoとして武道武芸を練習する室内の空間を示す言葉として認識されていますが、中国語では英語のように外国語に音訳することは少ないため、英語がわからない中国人にとってDojoも通じません。
柔道や剣道を練習するなら室内の練習場所は道場で問題ないでしょうが、Zhongguo Wushu を練習するにあたってそれをDojoで行うというのは不可思議です。
テニスはtennis courtで、アーチェリーはarchery rangeでおこなうように、中国武術はLianwuchangで行うという風にするのが適切だと思います。
稽古
稽古とは古(いにしえ)を稽(かんがえる)という意味の言葉です。これは武術の練習とは異なる概念です。「中国武術の古を考える」では意味が通りません。
中国武術は古を稽るのではなく練習をします。練って習います。老師から技芸を学び、自身で練ります。「練功」「練武」「練拳」という言葉を聞いたことはあっても「?稽古?」という言い回しを聞いたことがないと思います。聞いたことがあるとすれば、日本の老師からだけでしょう。
鍛える
中国武術では体を鍛えません。鍛えるというと鉄製品を叩いて鍛え鍛造するような印象を持ちます。中国武術は気血という流体エネルギーが体を動かすという概念を持っています。
ですから体を鍛えカチカチにするという概念そのものあまり重視されません。中国武術は気を練り、血を循環させて、充実し充満したある種の流体的なエネルギーを使うという考え方で体を動かし技撃を行うものです。
中国武術にも鍛えるに類似する概念はないことはありません。外功というレンガや木に筋骨を叩きつけて骨密度を上げたり、耐性をつけるといった練習法です。
外功的練習方法は、往々にして内功と比較して下等な取り扱いを受けます。中国武術は体を鍛えません。中国武術は功を練って体を強靭にします。
師範・師範代
師範・師範代という単語は中国武術では使用しません。中国武術の教室や武館の紹介で師範や師範代という単語を目にした時には何とも言えない違和感を感じます。
中国武術では学生を指導する資格をもつ人を「教練」と言います。これはコーチ、インストラクターという意味です。教練の筆頭格を総教練と言い、教練たちのリーダー役、取りまとめ役を務めます。
大きな組織では武術館ではそのオーナーや経営者、代表である館長がおり、総教練と何人かの教練、代理教練がいることが多いです。
内弟子と通い弟子
中国武術には内弟子という単語はありません。弟子は弟子です。外も内もありません。あとは通い弟子という表現もありません。弟子か学生かは拝師をしているかどうかの差です。老師の自宅に住み込む学生もいれば、労使と別の場所に住む弟子もいます。
試合
試合とは試し合うという意味ですね。試=「やってみる」と合=合わせる、を合体させた単語です。これは比較するという意味は含まれないと考えるのが普通です。
試合=試し合い=何かを試みて合わせる、という意味であることは分かりますが、武術に当てはめても意味が通じなくなります。だから試合という単語は中国武術では使われません。
免許
免許とは「一般に禁止されている行為をすることを許されること」という意味があるそうです。中国武術ではこの単語は使用しません。指導することを許されているということであれば、指導の資格があるということなのでそのような表現になります。
型
型とは物の形をかたどったものです。日本語では鋳型、金型、型紙、型枠 型式、遺伝子型等の言葉で使われます。
中国武術でもおおむね同様の意味で疲れますが、招式をひとまとめにしたものに対してそれを型ということはありません。招式を順番に並べそれらを一套にしたものを套路と言います。型とは外形の状態を表すものです。
組手
組手とは字のごとく、手を組み立てる、組み合わせる、という意味があります。組むとは格子状に組んだり、取り付ける、組付けたりという概念です。
手を組むとは手と手を組み合わせるという意味になり、こういう表現は中国武術では使いません。中国語にもありません。ですから、人間と人間が相対して自由な形式でスパーリングのようなものを行うという意味は全く含まれません。
東洋
東洋という言葉は西洋の対義語であると思っていませんか?本来は東洋とは西洋と対をなす意味を持つ言葉ですが中国社会においては意味は異なります。東洋とは日本のことを指します。東洋人と言えば日本人です。
拳法
拳法とは立って行う徒手武術のことを言い兵器、武器を使わない技術体系を指します。但し中国武術で拳法という表現を使うことは稀です。
兵器を用いない素手武術は徒手武術という単語がありますし、中国北派武術のほとんどは兵器を併修し、むしろ兵器武術がその技術体系の中核です。
ですから中国北方では拳法という表現はほぼ使われません。拳(こぶし)の打法という限定的な意味でつかわれることはあるかもしれません。
武道
武道とはつまり武の道という意味ですが、中国武術では人格形成を武徳として強調する場合もありますが基本は武術は武の技術であり、人格形成は儒教で修めるもののため武術と修養を合わせて語る単語は一般的には使いません。
また道とは、道家の摂理を表す言葉であり、人間の生きる道というよりも森羅万象や自然の摂理を表す意味を持ちます。
中国武術では使われない単語のまとめ
中国武術今回は中国武術を練習したり学んだりする際に使われることのない単語、使われる頻度が低い単語を紹介しました。
中国武術を指導する際に使われる言葉がどうであるかを聞けば、その中国武術が東洋人の文化の延長で考えたものであるか、中華民族が継承したものをそのまま指導しているか、その考え方や師の来歴、考え方がよくわかります。
皆さんも中国武術を学ぶ際、練習する際にはこれらの概念についてよく考えてみることをお勧めます。このブログが中国武術とは何か、を考えるいい機会になれば幸いです。


